そろそろ渡米の準備をしないと

胃内容論文
ここ数日集中して改訂を終えました。後は図を作り直してもらって、約束通り今月以内にプロフェッサーたちに送れそうです。


D論って何のために書くのだろう(論文3本ではなく)。文字通りに理解すれば、哲学を提示しなければいけないからだろうけど、本当にそれを厳密なものとして評価して求められているのだろうか。それとも学位授与に必要だからか。哲学を提示したという体裁を取ることができる能力を証明するためだろうか。個人的にはこれに近い。理想では、博士研究では一つの大きな研究の目的を立て、D論はそれを乗り越えるための幾つかの課題を解決していくプロセスをまとめた集大成みたいなものといちおうは認識しているけど、みんなはD1や進学する前から3年間の計画を立ててやっていたのだろうか。コロキウムをD1の段階で開くことになってるけど、そんな人いるのだろうか。


という季節外れのネタで書いてみましたが、こないだ後輩のD論の相談に乗りまして。彼は野外調査と室内実験をそれぞれ頑張りましたが、それを組み合わせて筋の通ったD論にするのに苦労しているようです。普通であれば、野外のことを実験で検証したという流れができそうですが、テーマが全く同じというわけではなくて。興味の範囲が限られている個人研究の範囲内なので、何とかこじつければ一つのストーリーができそうなのですが、そうすると各章の面白みが欠けてしまい。もちろん一番良いのは、各章が面白くて、それをまとめたらより一層面白くなるということですが、個人的な意見としてては、各章がそれぞれのデータで一番おもしろい形に仕上がっていればそれで良いということにしました。それがまだ形になっていないうちは、ジェネラルイントロも総合考察もまだ考える必要無しという感じで。


こんな適当な人間は研究者になれないだろうか。本来のD論の仕上げ方を理解していないわけではないと思うし、一つの筋の通った展望を持っていないことは研究者として大きな短所であることも承知していますが、興味が多岐にわたって、D論よりも論文で評価されるならば、それも良いんじゃないかとも思っています。D論でやってることと今やってることが違うなんて人は沢山いますし。でも、自分の場合は、場当たり的で、何となくまとまりのあるテーマでD論を仕上げなければならないという程度の認識で、3年後に大きな目的を達成するよりも、その時の論文を一つ一つ出すことだけを考えていて、そのお陰でつまらない論文は幾つか書けましたが、全体として何かを達成したという思いはありませんでした。自分のD論は一人でも読むに絶えず、製本も審査員の方にしぶしぶお渡ししただけです。そんな反省もありますが、もし今自分が博士研究を始めなさいと言われれば、3年間一貫して一つのテーマで研究できるか自信はなく。


今取り組んでいることは、胃内容データの時間変化、捕食被食関係のサイズ依存性、個体成長ニッチシフトとメタ群集、気候変動と生物多様性、漁獲の影響。冬に向けて同位体を再開しようか考え中。


最近、とある筋から仕入れました。
ハカセといふ生物


セルコン(CERのPD主催セミナー)
で司会と発表もしました。学部時代のK研の居心地が悪かったと言ったのですが、あれは、研究室の人たちの自然観というか造詣の深さと言うか、生態学が面白いと頭では理解していた分だけ、実感としては全く付いていけなかった自分が情けなかったという意味で、それに対する反動も含めて、自分のアイデンティティーを確立できそうな予感がした数理生態との出会いを運命的なものと思ったという、良い面だけが伝わってしまったような心配もありますが、自然史も理論もどちらも自分にとって欠かせないものです。野外調査をしてみたいと遂に公言してしまった。


何を調査したいかネタはまだない。もう少し正確にいえば、ネタはあるけど実行可能性がまったくわからない。それよりも何かをしたいというモチベーションだけ。良く人に、それ何が面白いの、と尋ねますが、自分が尋ねられたら困ります。それなりの理由は説明できますが、本心ではなかったりしますので。それぐらいの説明はしてよ、と言う意味での、何が面白いの、です。


PD飲み会で飲みすぎた。
KGTさんに財布から金を奪われた記憶はある。


日台ワークショップは予算不足のため見送りだそうです。